威容と再生

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熊本城にて2022/10/14撮影。

Nikon Z7, LUMIX GM1

NIKKOR Z 24-200mm F4-6.3 VR
1 - 18, 21-32
LUMIX G VARIO HD 7-14mm F4
19, 20

■撮影後記
 熊本観光初日はゆったりと時間をとって熊本城を見学しました。 熊本城は地震の爪痕がまだまだ残っていますが、大小天守は威容を取り戻していました。
熊本城の大小天守は後世の再建ですが、宇土櫓は創建時の様式を残しています。元々宇土櫓は小西行長が築いた宇土城の天守を移築したもので桃山時代初期の天守の様式を示しています。
熊本城は加藤清正が築いた城ですが清正の性格を反映した部分が随所にあります。例えば、城内には井戸が120本もありました。この異様に多い井戸は朝鮮出兵時の凄惨な籠城経験からきているという。
また城の防備といえばどの城にもある枡形だが、熊本城は枡形が6回連続する箇所がある(No.19)。これは熊本城が立つ地質が阿蘇山の噴火堆積物で柔らかいということに加えて城主の性格も反映しているのだろう。
このように藤堂高虎と並び城作りの名人と謳われた加藤清正が精力をつぎ込んだ熊本城ですが、2代目の加藤忠広は改易となり所領も熊本城も失います。その後の熊本藩は細川家が治めますが、清正が生きていたらどんな感想を持ったものでしょうか?

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