高野山旅行

1999年初夏に高野山へ行ってきました。会社で高野山へ行ったという話をしたら、比叡山と間違える人が多かったのですが両者は別物です。叡山は最澄、高野は空海です。
写真は全てNikon COOLPIX900で撮影。E950購入直前に行ったのですが色味がやや不満で撮り直したいのですがおいそれと行けないのが辛いところ。
写真が今ひとつなのを補うため、末尾に空海や密教について簡単に記しましたので、興味のあるかたは目を通して頂くと幸いです。

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高野山には大阪より南海電鉄特急「こうや」で行きました。終点近くには極楽寺橋とかまあ、雰囲気のある駅名が目に付きます。
電車を下りるとロープウェーで一気に高度を稼ぎます。
これがかなりの急勾配です。
高野山の西の入り口、大門。
写真では良く分かりませんが巨大です。
重層の五間三戸、入母屋造、銅瓦葺の楼門。元禄元年に炎上し、宝永二年(1705)に落慶、昭和57〜59年に解体修理されたそうである。
高野山は湿度が高く、木材の保存性は良くないので、これまで何度も修理されたものと思います。
どこで撮ったか少々アヤフヤですが(?)、金剛峰寺の入り口の一つだったような気が。
高野の象徴たる根本大塔。巨大です。
(この時はワイドコンバータを持っていなかった)
こういう形式の塔を多宝塔といい密教系の寺院に特有のようです。間単にいうと仏塔の起源は仏舎利(釈迦の骨)を収めて崇めるための物でした。例えば法隆寺の塔の基部からは人骨が発見されたそうですし。
しかし多宝塔はそういうものではなく、大日如来を象徴するものです。
落雷によって何度も焼けたがその都度再建された。現在の塔は昭和9年(1934)年建立で、高さ48m。
こちらは大塔のお隣にある塔。こちらの方が風情があるように思える。
余談ですが大日如来を初期の宣教師はキリスト教の神と勘違いしたようです。
六角経蔵。
美福門院(鳥羽上皇の皇后)寄進の一切経を収めるために平治元年(1159)に建てられたようで昭和の初めに焼けて建て直した。
現在は一切経は霊宝館に移されているそうです。
一切経は大蔵経ともいい、仏教聖典を総集したものです。
国宝不動堂。
真言宗総本山・金剛峯寺。
一時京都の東寺(教王護国寺)に主導権を奪われ、衰退したようですが、その後復活したそうです。
主殿は桧皮葺書院造りで、造営は文久三年(1863)。
金剛峯寺の庭園。
高野山には普通の宿はなく、旅人は寺院に付属する宿坊に泊まることになる。こちらは私が泊まった赤松院。
赤松院の庭。なかなか綺麗である。
宿坊の食事。いわゆる精進料理である。
彩りも味もよかったと記憶している(特に枇杷)。
宿には外人の夫婦も泊まっており、結構好きなんだなと思った。
高野山奥の院の参道。
ここには庶民から大名まで数万基のお墓がある。
写真は毛利家のもの。他にも秀吉、光秀、伊達家、あるいは企業創業者など諸々である。
高野山奥の院。撮影禁止の立看板の直前にて。
写真の堂宇の裏に835年空海が入定したお堂がある。未だに空海に毎日の食事を捧げる役目の僧侶がいるそうだ。
素人目にも力感溢れる動きの表現力は見事である。
高野山は一大宗教都市とも言って良く寺院が数多くある。
人口のかなりの割合を僧侶が占めている。
金剛三昧院の多宝塔(国宝)。
北条政子は頼朝逝去後、入道して禅定如実となり禅定院を金剛三昧院に改め 行勇禅師を住持とした、そうです。
通りを歩いていて見かけた交番。高野山ならではか。

おしまい

密教について

私も詳しくないのでごく簡単に説明します。
高野山の金剛峯寺は空海が816年に開いた真言宗の総本山です(もう一つの総本山は京都の東寺)。
仏教は大別すると顕密禅という3つに分かれます。禅はお分かりだと思います。
密教の密は秘密の密です。何が秘密かというと、密教以前の仏教は経典によって教えを伝えていたのに対して、密教は師から弟子へ体験を通して教えを伝える、言葉をかえると深奥は言葉では伝えることができない、という立場をとります。
対して言葉で伝えることができる=言葉によって顕かになるような浅い教えが顕教である、というような主張を空海はしたようです(弁顕密二教論)。
余談ですが、唐から帰国後最澄は空海の弟子になり、たびたび密教の経典を借用します(当時朝廷は国家鎮護のための新しい仏教として密教の教えを欲したが、最澄は密教を深くは学ばなかった)。空海は最初は快く貸していましたがそのうち貸し渋るようになります。困った最澄は弟子の一人(泰範)を空海の下に遣りますが弟子は結局最澄の下には戻りませんでした。

空海について

日本史において空海こと弘法大師ほど伝説の多い人物もいないと思う。
空海は773年讃岐に生まれ18歳で大学に入学し最初官吏を目指したが退学して各地で修業し31歳で出家した。この間24歳で「三教指帰」という仏教、儒教、道教の比較論を著したがどこで何をしていたかは不明である。
空海は出家後すぐに唐に渡った。空海は正規の留学生(るがくしょう)ではなくどういう資格で唐に渡ったのかは不明である。松本清張の推理では遣唐使長官の私的な通訳ではなかったかということである。
入唐(にっとう)後空海は青龍寺の恵果(けいか)の門に入り、たちまち頭角を現し金剛界、胎蔵界の灌頂(かんじょう)を受け、最終的には正統密教の第8祖となった。異国の僧侶としては破格の扱いであろう。なお後に空海逝去の知らせが届くや中国では五筆和尚が亡くなった、ということで追悼が行われた程であったという。
師の恵果滅後の806年膨大な仏典、仏像、法具を携え帰国した。帰国後の空海は最初入京を許されなかったが、国家鎮護の修法(しゅほう)を行うなどして朝廷の支持を取り付ける(特に嵯峨天皇=三筆の一人)とともに、教団を組織し816年ついに勅許を得て高野山に金剛峯寺を開創した。
その後空海は821年東大寺に灌頂道場を建立、823年都に東寺を賜り根本道場とし、828年には庶民を対象とした日本初の私立学校を開設、などした。さらに空海の活動は宗教以外にも及び、例えば821年には満濃池の修築を行うなど、その活躍は文学、芸術、学問など広範に渡った。
空海は国家の鎮護と救済を目標としたが、即身成仏という独自の思想をうち立てた。この思想はその後の日本仏教の底流をなすこととなった、ということである。

この項、続く。。。